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                               『音惚花活気好@KAKKY』『七四十一大神』&『みんなしあわせになれ』= 垣内政治 ジャパンアカデミー所属の『おとぼけカッキー』さんの日記です
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平成十(西暦1998)年六月二八日 旧閏五月五日(日)

 創造の天使達は知らなかった。
 彼等の極め尽くされた物理科学も
 霊界の全てを窮め尽くすことは不可能だったのだ。
 彼等に創造主である主神が与えた使命は肉体遺伝子の伝搬であった。
 この果てしなく再生を繰り返す大宇宙の隅々にまで
 生命世界を繁殖させることが主神のお望みであったからである。
 しかし、彼等はその使命を知らされることなく、
 創造本能の赴くままに創造を展開してゆくことが出来た。
 全ての生命はその創造本性のままに自由に生きてゆくのである。
 主神による支配なき支配の下、この宇宙は拡大してゆく。
 ここは無限の創造と破壊の世界。
 誰もその法則から逃れることは出来ないのだ。
 しかし、霊界の扉が開かれる時、
 あらゆる存在はその法則から解放される。
 扉があることすら知らされずにいる知恵高き者達は、
 恐れ、おののき、身を守るために奸佞邪知を巡らして
 弱肉強食の世界を造り上げてしまった。
 しかし、三千世界の主神はこれを見捨てるような非情なお方ではない。
 弱きを佐ける愛あるが故に、霊界に広がる希望を予告するために、
 その体の苦渋を恐れぬ勇者達を大地に派遣したのだ。
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平成十(西暦1998)年七月二日 旧閏五月九日(木)


 先日、鳥取県米子市に出張滞在 している間に、
伯耆の大山を見遥かしながら、
神代において素盞嗚尊様が退治した八岐大蛇について考えている時に、
ふと、

「ヤマタノオロチのオロチを霊反しすると○イになるから、
 これをつなげて読むとヤマタノ○イでヤマタイになるのではないか」

と思ったのである。

ヤマタイと云えば云わずとしれた「魏志倭人伝」に記された

「邪馬台国」

のことである。

現代日本史において「天照大神 」とされる女王卑弥呼を頂点とする鬼道国家である。

後世、女皇の権威を正当化しているように脚色されて編纂されたと思われる
皇典古事記及び日本書紀に、
緻密に暗号化された本邦建国秘話が、
私の脳内でそのヴェールを脱ぎ始めたのは、
このひらめきとほとんど同時のことであった。

  卑弥呼=高姫、
  天照大神=日ノ出神、
  素盞嗚尊=大国主命、
  少名彦命=恵比寿=耶蘇

という公式が私の脳内を駆け巡り、この連想を通じて、
霊界物語の回顧録の中で、
聖師様が窮地を逃れるために何度か、

「アマテラスオホミカミ」

の十種の言霊を連呼している真意が、初めて塾解出来たのである。

「天皇も素盞嗚尊である。」

とは聖師様の残した言葉である。

これを誉め殺しであるとか天皇とは
主神のことを遠回しに言っているのであるとか諸説あるようだが、
それは違うであろうと思う。

何故なら聖師様自身大本霊団を日本の型とする中で、
天皇陛下の型として活動していたと思われるからである。

そして同時にそのことは
日本国の皇国としての位置付けを示唆しているのであるから、
自らを汚すような真似をするとは思えない。

 聖師様にせよ、天皇陛下にせよ、皇国日本にせよ、
素盞嗚尊としての位置にあるときはその位置は玉体であり神宮である。
そして、月読命を聖霊媒体として
天照大神を御本霊に召還することによって
霊力体完備した現人神として完成し、
神素盞嗚大神の救済力を発揮し得る大霊止となるのである。

 素盞嗚尊は男性肉体であり、
天足彦として個性完成する前の天不足である。
即ちこれを天稚彦と称するのである。

 失楽園のアダムを称して伊邪那岐、天堕六、仇者と記すのであるが、
彦、尊等の冠詞を伴うときは霊止を意味するので
堕落とは無縁の情態である。

 大日霎貴は女性肉体であり、
胞場姫として個性完成する前の笑晴照である。

即ちこれを天稚姫と称するのである。

失楽園のエヴァを称して伊邪那美、破壊婆、汚場と記す。

古事記に記される女神天照大神は変成男子であり、
聖徳太子伝搬の仏教に所謂尼である。

 月夜見尊は精霊媒体であり、
守護神として個性完成する前の神降主である。

即ちこれを輝鳥別と称するのである。

 失楽園の狡猾蛇を称して大自在天、大黒主、大蛇と記し、
八岐大蛇と呼ぶのであるが、
これらは全て翼を奪われた堕天使長であり、半幽半物質である。

霊界物語中の蚊取別は三日月の様に腰を曲げる事で
これを示唆しているのである。

今回訪れた鳥取県羽合、及び米子が共に
この輝鳥別の翼の因縁から湧き出た地名であることを
私は窺い知ることが出来るのである。

 常世の国、米国の米が八岐大蛇を抱えつつ懲らす因縁を、
国章の雄々しい鷲が示唆しているし、
それは伯耆の大山が大黒主、八岐大蛇退治の聖地であり、
決して魔境ではないという事と同意義であると思うのである。

 世界大戦終結の犠牲的聖地となった米国のハワイへの空襲が、
我が国に宿る世界征服への邪心を懲らす結果になったことも、
昭和天皇が全ての責任を負う形で人間宣言をしたのも、
天の岩屋隠れであり千座(位、石)の置戸を背負ったことと
同意義であるといえる。

 因みに千石の置戸とは、戦国時代の終結の為の、
松竹梅の桃の御霊の活動の御使命を負わせられ給うたことを示し、
それは織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の活動を型とする
毒を以て毒を制する荒療治である。

 ここで千座の置戸を、敢えて千石の置戸と記したのは、
天照大神の天の岩屋隠れの際の千引き岩と、素盞嗚尊の千座の置戸が、
実は表裏一体の出来事であり、
同一の事件を霊体両面から表現している事を、
簡潔に一言にまとめる為である。

 天の岩屋隠れは天国的描写であり、千座の置戸は霊国的描写である。
これを統合して千座の置戸と記すのである。

霊界の出来事は、全て時空を超越しており、
現界に誠の神柱が一人存在する時は、
彼を通して、彼の存命中に同期的に現実化する。

それは一人が多神の活動を、一人無限役的に演ずるような状態である。

また、誠の者が不在の時は、一神が万人に分化して、
分担的に霊界の出来事を現実化させることもある。

それが、先に記した戦国武将達であり、
また過現未を通して展開される人類史でもある。
平成(西暦1998)十年七月二四日 旧六月二日(金)


 近年、音楽が草花や胎教などに及ぼす影響を科学的に分析して、
良好な音楽と、不良な音楽を分類し、
より良い管理教育に役立てようとする運動が盛んになった。

その結果、良好とされたのはクラシック音楽であり、
不良とされたのはロックやブルースや演歌などの大衆音楽であった。

 実験結果の実例を並べながら数学的な説明を受けると、
どうしても体主霊従の良識ある人間の耳には、
この報告は否定し難いものとなるが、
私のように、一旦、神様にロックやブルース等の不良音楽を
更正して頂いてから楽しんでいる霊主体従の凡夫には、
全く悪影響というものはないのである。

 事実、私もかつて体主霊従の人間だったころは、
芸術とは即ち「奇をてらうもの」くらいの浅い見識しかなく、
表面的な刺激性のみに振り回されて、
万物の霊長たる人としての立場も知らずに、
音楽の奴隷と化していた頃もあるから、人間社会にとっては、
この運動は重要な意味をもつものであると感じている。

しかし、霊主体従の人社会にあっては、如何なる不良音楽も、
快適な音楽に復活するものであることを私は知っている。

何故なら音楽に影響される人間とは違い、
人は音楽の創造主であるからである。

人が主神を超える者ではないのと同じ理由で、
音楽は人を超えるものではないからである。

音楽に影響され、悪くは毒され、操作される可能性のあるのは、
あくまでも人間以下の生物についてである。

人間とは云うまでもなく
主神の愛善と真信の徳を覚醒させていない動物の頂点にある
人の似象である。

例え色即是空、空即是色を奉ずる仏教者であるとも、
主神との正しい関係を取り戻していない以上、
体主霊従の域を出るものではないのである。

 音楽のみに限らず、広く芸術一般は、
人間的であるか、主神に捧げるものであるかで
全く異なるものとなるのである。

 現代社会はうっかりすると氾濫する情報に振り回され、
気付かぬうちに隷従させられてしまいかねないが、
常に我が身に起きる出来事の全てを
主神に捧げて頂き直す習慣を身につけることが出来れば、
主体性のある人生を謳歌する事が出来るものである。

 ロックやブルースが悪魔的音楽であるなどという
危機的情報を流すこと事態、
人間は自ら自己を悪魔より弱く劣るものであると
宣言しているようなものである。

主神がこの世に存在させている全てを活かして、
娯楽に変える創造性を、主神から相続しているのが人である。

そして、人でなければ所謂地上天国の建設などという大事業を
成就できるものではないのである。

 人間は主神との正しい関係を取り戻せないから人間なのである。
故に音楽のみならず、様々な情報に混乱させられるのである。

 ここのところをはっきりと認識した上で、
私は近年の人間科学の進歩と成果に
大きな期待と感謝の念を深く抱いているのである。

 人を汚し滅ぼしうるものなど一切存在するものではないのである。

 (出口王仁三郎)聖師様曰く、

「人が地獄に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。」

ということは、
人と人間とを明確に分類した上での至言であることを改めて考えさせて頂いた、
近年の科学的な音楽の分析研究であると思うのである。
 
以上 横浜の自宅にて
平成十(西暦1998)年七月二六日 旧六月四日(日)


 日頃、市井に交わって、
肉体生存の為の労働の苦楽を分かち合っている仲間というものは、
理屈抜きに懐かしく、また、お互いにかばい合いたい、
無闇に捨てがたい存在である。

それでもやはり、主神様のお手伝いをせねばならぬ大事な仕事の時は、
信仰心の成長していない方々とは、
なるべく離れていたいと感じるのである。

そう云うときは、わざと憎まれ口を叩いて
彼等を周りに寄せ付けないようにすることが多いのであるが、
余程大事な仕事の時には収拾の付かないような大喧嘩をさせて、
全くの四面楚歌になるようにお上の方で計らってくれる様である。

実際、孤立状態でいる方が仕事がはかどるのだから、
私としても、人間の情としてはやるせないが、人情としては、是非なし、
ただ感謝して尽くすのみ、という心境になれるのである。

 「敵を欺くには、先ず味方から」

というほどの事でもないのだが、大体において、

「お前のために云々」

といって親切そうに遮りに来るのが、あちらの手であるから、
私のようなお人好しが仕事をするためには、
これより他に手はないのであろう。

 人間の情としては、私も何等、普通の方々と変わりなく、
いや、むしろ、日頃神様から活力を頂き続けているだけに、
強い欲望にあふれているから、美しい女性を見れば、
こんな娘と恋に落ちたら、地獄の底まで落ちても構わないとも感じるし、
何だか落ちつかない気分にもなる。

一攫千金を夢見て、泥田にはまるような失態を演じそうになってみたりで、
もし聖師様に出会わなかったら、
とんでもない暴れ馬のままであったろうと思うのである。

 始めの頃は私も、信仰心があるつもりで、やたらと神社巡りをしてみたり、
宗教論を誰彼かまわずまくし立てたり、自分の様などうしようもないやんちゃにも、
神様は力を貸してくれるのだから、誰にでもすぐに分かる筈だと、
とにかく神様を証明しようと一生懸命だった。

そんな私に眷属の神々も協力的にいろんな奇跡を現して見せてくれたが、
土台信仰心の磨かれていない方々には、単なる偶然だとか、
もしくは説明できない時には、喧嘩にでも負けたかのように、
後になって目の敵にするようになってしまうことの方が多かった。

ただそれも、私の方にも、どこか相手を言い負かしたいという気持ちがあったから、
眷属の神々と波長が合って協力してくれたのであろうと、今にしてみれば思うのである。

 やはり、霊界物語を拝読したことが一番の救いであった。
人間的な情に振り回されずに楽しむことが出来るようになったし、
主神様の大事な仕事は、黙って出来るようになった。

 大体において、こういうことを書いてしまうと、これからの監視がきつくなるのだが、
私がこういうことを発表できるのも、もう忍者のように隠れて、
主神様の仕事をする必要もなくなったからだと思う。

おそらく会社の出張を利用して神跡地に行く必要も、
当分は無いであろうと思う。

 人間の若い女性は美しい。実に魅惑的だ。
けれど、信仰心が通じ合わないから、会話も弾まない。
これでは結婚しても地獄だな、と思う。

今の世の中、性欲を満たすだけなら、ビデオや雑誌で事足りる。
どうしても肌が恋しければ、金を積んだ方がまだましだ。

私はやっぱり十歳年下の御霊女様以外とは結婚したくない。

けれど信仰心と小理屈を勘違いしている女性は御免だ。

 友達とバンドが作れたら最高だけれど信仰心の無い仲間では本当の仕事は出来ない。
ただ、だらだらと集まり、無言に音をぶつけ合うだけだ。
一人でパソコン相手に作曲している方がましである。

愛善苑に楽器の出来る奴がいないかなあ、
やりたい奴がいたら教えてやるのになあ。

 信仰心というものは、誰かに勧められて湧いてくるものではない。
また、悟りというものも、誰かに導かれて得るものではない。

 必ず最後には、この世の中に、主神と吾とだけがあり、
その他のものは全て主神の御心を映した体であるのだ、
という独立、自律した情態になってから、本当の信仰心も、
悟りも得ることが出来るようになるのである。

 現代のような坊ちゃん、嬢ちゃん育ちの放埒な世代には、
なかなか厳しくて、お勧めできないことである。

 「可愛い子には旅をさせろ」

とか

 「若いときの苦労は買ってでもしろ」

とか

 「獅子は我が子を千尋の谷に投げ込み、這いあがってきた子をまた突き落とし、
  それでも這いあがってきた子を後継ぎにする。」

などと言ってみたところで、身贔屓になり、我が子を甘やかすのが、人間の情である。

 「はあ、そうなるとこれは、この世で私が、理想の女性に出会うことも、
  理想のバンド・メンバーに出会う事も、夢のまた夢なのかいなあ。」

と溜息をつきたくなってしまうのだ。

 再興愛善苑で出会うのはいつも既婚の年配者ばかり、たまに若い子がいても、
苦労知らずの御転婆ばかり、結婚、結婚のコンコン様に魅入られて、
天下の大事を見失う未熟者ばかりで、勝手に鼻息を荒げて早とちりをするものばかり。

ああ、いけない。こんな事が公表されようものなら、また垣内の評判が下がってしまう。
どうか、こんなことは垣内の愚かな勘違いでありましたと、
平身低頭お詫びの出来るような再興愛善苑でありますようにと、
また、腹の狸がしゃしゃり出る。
おっと狸だなどといえば、また評判が落ちる。

 「えい、狐の七化け、狸の八化け、結婚、合コン、コンビに、コンボ・バンド。
  コンの名がつきゃ、たいがい狐、貴常の貴をぬきゃ、
  そいつが貴貫、貴さを抜く狸とは貴より尊い尊貴の御霊、神素盞嗚大神だ。
  獣の里を救う神。七の上行く八祖の神。三千世界の守り神。」

と、丁度お後も宜しいようで、またの機会をお楽しみ。

横浜の自宅にて豊玉愛読会に行く前の二時間で書く。
平成十(西暦1998)年八月二三日 旧七月二日(日)


 わが家のゴキブリは呑気である。
私がそばにいても逃げようともしない。
部屋には、私にはじかれても、
はじかれてもまたやって来る顔馴染みがいる。

私も、たまには機嫌の悪い時があるので、

「この野郎。」

と言って近づく時もあるので、彼が逃げるのはそんな時くらいである。

それでも、極端に遠くに逃げたりしないで様子を伺っている。
憎めない奴である。

 昔からそうだったわけではない。
子供の頃は、ゴキブリが大嫌いだったから、よく殺したものだ。
スリッパから始まって殺虫剤に捕獲式の罠やホウ酸団子。

 今、わが家の主になっているのは俗に油虫と呼ばれている小さな奴だが、
以前のアパートでは茶羽ゴキブリと呼ばれるデカイ奴だった。

私がよく殺したのはこいつであるが、
ある日目の前でそいつに殺虫剤をたっぷりかけてやった。
それこそこん畜生と思いながらである。

だが、その時の死に際の表情を見ているうちに、
何とも嫌な気分になった。
たとえゴキブリとはいえ、生への執念は強烈なものだ。

 私はそれを奪おうとしている。宗教がどうとかいう以前に、
本能的に良心の呵責を感じざるを得なかった。
それから、少しずつ殺さなくなっていったのである。

だが不思議なもので、しばらくすると主がかわって来た。

茶羽から油虫への交代である。
奴等は小さいが増殖の勢いが物凄い。
一匹二匹なら大したことはないが、
増殖するとひどく臭いのが頭に来るのである。

それで、再び退治を開始した。
功をそうして減少したが、そうすると茶羽がまた現われる。

そんなことを繰り返しているうちに、
種としては油虫の方が優位なのではなかろうかと思えてきた。

それで油虫を退治すると
再び小憎らしい茶羽を呼び戻すことになると思ったので、
退治するのはやめてしまった。

 暫くして仕事の現場先で雌の子猫を一匹拾ってきた。
その頃は私も書店で入手した大本神諭や
天理教の筆先を読み始めた頃だった。

はじめは可愛さあまって拾ってきたのだが、
手の届かない狭い所に糞尿をされて、
叱りながらトイレを教えた。

トイレ以外で粗相をした時は容赦なく叩き、
その粗相に鼻を突きつけて叩き、
今度はトイレに座らせて思いっきりなでてやる。

これを何度か繰り返すうちに彼女はトイレを覚えてくれた。
そうするとまた可愛いくなり、猫可愛いがりに可愛いがった。

ミーという名前をつけたのだが、彼女は油虫を見つけると、
狩りをするのである。
そのお陰か、油虫は姿を隠す様になったのだ。

 そんなある日、八幡書店から神霊界を入手した。
そこに載っていた天津祝詞と善言美詞を毎朝、
毎晩寝床に正座して唱えるようになったのだが、
ミーはその間、わきでじーっと座って見ている。
まるで拝聴するようにしていた。

何処で授かってきたのか六匹ずつ十二匹の子猫を産んだが、
子供たちは皆親の真似をしてトイレで用を足した。

しかし、可愛いその彼女達とも、私が貧しく、アパート住まいだったので、
別れねばならないことになった。
都会の小さな悲劇である。
隣のおばさんが、管理人に訴えたのである。

 皆神山での講座の直後、例の51ー66の軽自動車を購入して、
半年後に駐車場のある今のアパートに引っ越した。
神の導きとしか思えない数字に囲まれて新しい生活が始まった。

 野良猫が一匹、わが家に訪れるようになった。
ミーの生まれ変わりの様な気がしたので、飼おうとしたが、
彼女は飼い猫にはならなかった。
アパートの悲哀を知っているのだろう。

暫くして以前のアパートの隣のおばさんが急死した
という知らせがあった。
引っ越してから三か月ほどたったばかりであった。

 このおばさんは酔うと発動状態になり、
私が神様の勉強をしていることを大声でなじったり、
私のすることなすこと邪魔をしようとしていたが、
それでも私が傍にいた頃は、
神様から生命を分けてもらえていたのであろう。

 私の邪魔をすることで何とか生命線をつないでいたのだ。
その私が引っ越してしまったのだから、
ついに悪霊達に連れて行かれてしまったのである。

 それから、私が愛善苑関係の集まりに参加しようとすると、
母が倒れるようになった。

父は私が、構わずに出かけるのを快くは思っていなかった。

だが、母にしても、以前のアパート時代に糖尿病で危篤状態だったのを、
私が医師と喧嘩して連れ帰り、藁をもすがる思いで始めた、
物語音拝読のお陰で再生したのだ。

しかし、信仰を毛嫌いする父の影響で、
母はどうしても病弱の体を悪霊に利用される形になってしまった。

野良猫の彼女は、そんな私の孤独な心を慰めるために、
神様から遣わされた使者であった。

 そんな母もオーム真理教の毒ガス事件の後
私の天津祝詞を引導にして他界した。
その分霊は隣街に再生している。病弱な体を脱ぎ捨てたのだ。

 父はどうしても、この厳しい信仰を受け入れられず、
創価学会に再び入会して別居することになった。
日本の経済不況がいよいよ本格化する直前のことである。

私に対する法難が過酷になるのは目に見えていた。
私は止めもせず、父を創価学会に預けた。

 今の同居者は呑気な油虫一家くらいなものである。
彼等は私が殺さないことをよく知っている。

だから、私から逃げようとしない。尚更、憎めなくなる。

 平成二年十一月に私は七四十一大神から神示を受けていた。

 「平成四年、七年、十一年に気をつけよ」

と。

 過去四年と七年に日本を中心とする世界で何があったかは、
承知の事実である。
来年平成十一年は1999年に当たる。

二度勝って、三度目に負けるのが悪魔であり、
二度負けて、三度目に勝つのが神の軍勢である。
今年平成十年は聖師様に関わる重要な年であった。
それが何を意味するものであるかは、今は語るまい。

 昔はゴキブリを憎んで殺した私だが、今は全く殺さなくなった。
目に余って邪魔な虫は捕まえて追い出すばかりである。

 「その日、二階にいる者は、一階に忘れ物があるからといって、
  取りに降りて行くな。」

と、教えられている。

 天上人は床の高い所に住まされるという。
この先何が起こるのか、知ってか知らずか、
わが家のゴキブリは全く呑気である。

 ゴキブリは家の威勢を現すとか。

 神を恐れて逃げる人の多い世の中で、
神を恐れず呑気に暮らすゴキブリは全く幸福者である。
神を慕う猫を追い出した女は、世を去り、
神を嫌いブツを慕う者は、天より追い出された。

しかし、ただ見捨てられたのではなく、
それぞれの居心地の良い所へ別けられただけである。

 猫やゴキブリでさえ、神を慕い、命を尊ぶ者を恐れもせず、
呑気に暮らすというのに、
弱い犬のように人影や、物音に吠え散らかすのは、
やがては神の子、神の宮ともなる人に生まれた人間としては、
あまりにみっともないことではないか。
人間の小賢しい知恵と、恐怖心は、
闇に逃げ込むゴキブリの様に醜く哀れである。

 暑中厳しいわが家も、正しく鬼門に四神を祭り、
昔ながらの護符を配しただけで、
窓を開ければ涼風に恵まれた天国となる。

 我がひのもとは八百万の神の住まう国である。
正しく主神を祭り、諸々の神仏に礼を払えば無限の恵みに浴するのだ。

 わが家のゴキブリは全くもって呑気である。
平成十(西暦1998)年八月二六日 旧七月五日(水)


 邪馬台国。

(出口王仁三郎)聖師様は

「そんなものは無い」

とおっしゃられたと聞くが、
では何故その名が現在に至るまで日本史、世界史の中に残され、
古代史家達は生涯を通じてその謎を探求し続けているのであろうか。

 邪馬台国は魏志倭人伝に登場する、
卑弥呼を女王とする鬼道国家であると言われている。

しかし、聖師様は無いと言うのだ。

 では魏国の人は何のために、
その無い国をあると書き記したのであろう。
 
 当時、魏と邪馬台国は国交を結んでいたと言われる。
いわば姉妹国ともいえよう。

にも関わらず、その親しい国を指して邪馬台国と記すのは少々おかしい。
漢字は、音が重要で、その意味に関係なく使われると聞くが、
それにしても、あまり芳しくない国名である。

 「 邪、馬、台、国、よこしま、うま、たい、こく。」

変である。「じゃま」と読めば、
「あわ」とか「ジャパン」の転訛とも思えるが、
やはりその文字が卑しい。
しかも、卑弥呼という表示も尊い女王に対するにはあまりに変である。

「いやしきをひろくよぶ」と書いてある。

 「たいこく」を台国と記してあるが、
これも大国ではないものに対してこう記したのではないだろうか。

例えば大黒である。

 邪馬台国を「やまたいのくに」と読みかえれば、
「やまたのおろちのくに」という風に、
私には読むことが出来るのである。

 霊界物語にはこれを思わせる幾つかの節がある。
第二十四巻、如意宝珠、亥の巻、第五章辺りからの高姫の台詞が
それである。

 要約すれば、高姫の肉体は日ノ出の神が憑り、
大自在天様に代わって、大黒主命と半分同志一つになって高姫と現れ、
世界の神政成就の土台となる身魂である、ということになる。

おそらおく、魏の当時、
バベルの塔の破壊以来、メソポタミヤから流転しながら、
日本列島のある地に陣取っていた高姫(大日霎貴姫)の勢力が、
魏に使者を送って、魏を言いくるめようとした事件を、
怪しく思った魏の志士が、後のことを考えて、
この様に記したのではなかろうか。

現在、魏は失われたイスラエル十支族の内の一氏族として
有力視されている事実がある。

高姫一派が大言壮語法螺を吹くのを改めるべく、
九州と島根、鳥取に東征隊を派遣して、
国家を建設しようとした期間が、
我が国の失われた三百年間に相当するようにも考えられるのである。

従って、大和朝廷と邪馬台国は、
ヤマが同じであるだけで、系列が全く違うのだ。
 
 イスラエル民族のヘブライ語では、
神の民のことをヤ・ウマトゥと発音する。

 これを義理天上日の出神の系列は邪馬台国と記し、
魏から流入した系列は日ノ出の神、天照大神、
貫州日ノ出の神等の大和と記したとすれば、
私は納得することが出来るのである。

 大黒主命は現在の鳥取県米子市の大山に陣取り、
八岐大蛇の謀略に励んでいた。
これを退治したのが、我等が素戔嗚尊様であるが、八岐大蛇一派には、
その妻方として、金毛九尾の狐、
その軍勢には六面八臂の邪鬼が含まれていたことは言うまでもない。

 素戔嗚尊は本来、真正の日ノ出の神であり、真正の天照大神である。
そうして、元々は天地のご先祖様である。
その意味で素戔嗚尊と偽大国主命である大黒主命も
末裔であることに何の差別もない。

これを天孫二二岐命(王仁七四十一大神)が国譲りされるのは、
何の無理も無い事であるのだ。

 邪馬台国の問題は、国譲り神話に大きな関係がある。
大和は元々出雲の神の子孫である。

従って、魏を遡ればトルコのエルゼルムとなり、天となる。
無視出来ない問題である。
平成十(西暦1998)年八月二八日 旧七月七日(金)

 私は長いこと、神素盞嗚大神様が母の神であるという事実を、
信仰しながらも、実の所、頭で理解出来ないままでいたのである。
 
 しかし、先日米子に於いて伯耆の大山を眺めながら働いている間に
感じたことを整理して行くうちに、神素盞嗚大神様が父母の神、
誠の天地の御先祖様で無ければ、古事記を中心とする世界史は
つじつまが合わなくなる事を漸く確認する事が出来たのだ。

 我が国の紀記には既に、神素盞嗚大神様の霊力体三元の力徳を
珍の三貴子として簡潔に示されてあったことを知った喜びは、
必ず今後世界万民のものとなるであろうと思う。

 勿論、私が誰よりも早く知ったということを言っているのではない。
しかし、霊界に一つの架け橋が出来たことは確かな事実である。
時を経るに従い、この事実は万民のものとなるのだ。

 私も、毎朝必ず神言の中で母の文字を拝読して、
それが父母という意味であることを霊界物語を通して学んでいながら、
その理解はどうしてもぼんやりとしたものであったのは、
理屈をあまりに軽んじていた報いであったろうと
反省しているのであるが、
このことは何も私だけの呑気ではないであろうし、
また、同様に感じていながらも、
慢心を恥じて隠している多くの信徒の方への激励の意味も込めて、
このことについて私なりに書いてみることにした。

 先ず、結論から記せば、

  神素盞嗚大神様の

   父性は、素盞嗚尊様として古事記に記され、
   母性は、天照大神様として古事記に記され、
   侍性は、月夜見尊様として古事記に記され、

 この三性はそれぞれ、

  天照大神に象徴されるのは母であり天である。

   天は同時に父であるから、これは変性男子である。
   そして神を拝する宗教、文化の象徴である。
   即ち霊系であり、水中火霊である。

  月夜見尊に象徴されるのは万物である。
 
   万物の理を司り、そこから解脱する法を説く仏教や、
   肉体、精神の仕組みを明らかにし、
   自己の自律を図る学問、文化の象徴である。
   即ち力系であり、龍神、天使、侍従である。

  素盞嗚尊に象徴されるのは父であり地である。

   地は同時に母であるから、これは変性女子である。
   そして祖を拝する士道、文化の象徴である。
   即ち体系であり、火中水霊である。

 古事記は、神道を本体としながら、
仏教、耶蘇教、儒教の奥義を内包しており、
ここに封印された神秘を開き、全てを根元に帰一統一させ、
それを宇宙大に開花させ得る鍵は、
ずばり聖師様と霊界物語にあるのである。

 ただし、これらを理解することは決して容易なことではない。
先ずは霊的直感力を開発してからでなければ、
単に肉体頭脳だけで考えても、
永久に理解出来るものではないのである。
その霊的直感力を開発するには、
どうしても素神への信仰心が必要なのである。

 この真理が明らかになるに連れ、
宇宙からの珍客は増大することであろう。
物の世、幽界からの出口が聖師様である。
愛善苑では未だ禁句になっている宇宙人達の抱えている問題を
解決するのは、愛と感動の源泉である神素盞嗚大神様であるからだ。

 物質、肉体の支配するこの現界の長寿を
全く問題としない神の世界の謎を解明することは、
宇宙全体の大問題であるのだ。

 地球一つ満足に納めきれない人間に、宇宙の何が分かるものか、
というのは私も同感である。が、聖師様を通して主神が始めたことは、
地球一つで治まりのつく次元の業ではないということを
忘れるべきではない。

 私の心は勇むばかりである。あなかしこ。
平成十(西暦1998)年八月三一日 旧七月十日(月)

 (出口王仁三郎)聖師様の説く霊界を認めると楽になる。
反対に認めなければ、
それぞれの方法で苦しみを和らげる努力をしなければ、
生きていくのがつらくなったり、自分の地位や名誉を守るために、
随分あくどい人間にならなければ生活を維持出来なくなってしまう。

 また、死ねば何もなくなるとか、
死ねば楽になれるような妙な誤解をしていると、
安易に自殺をするような愚行を犯してしまうことになる。

生命は永遠である。
霊は、その永遠の生命に授けられる個性のようなものである。

 霊は向上して神になったり、堕落して悪鬼になったりするが、
生命を奪われない限り
永遠に連続する一個の人格として存在することを許されている。

 しかし、この肉体は、一生に一個だけ与えられる貴重なものである。
これを疎かに扱えば二度と五体満足な生活を楽しめない事になる。
生まれ変わって、新たな肉体を得たとしても、
それは次の生涯での事で、今、この瞬間の境遇や人脈を、
全てやり直さなくてはならなくなってしまい、今、
喜ばせたい人々を喜ばせられなくなるという悲しみを
味わうことになるのだから、この肉体を活かしきれないのは、
主神に対する最大の親不孝ということになるのである。

 人間は一度信仰に目覚めれば、
主神からの霊養を円滑に流入されることになるので、
生命生存の心配は主神に任せきってしまい、
自己の肉体を最大限に活かしきるように努めることが、
最も望ましいことであるのだ。

 人間にとって生命存在の心配から解放されて、
ひたすら自己の使命や才能にのみ集中できることが、
どれだけ楽なことであるかは、
自力で悪戦苦闘しながら努力してきた方々には、
何の説明もせずとも理解して頂けるものであると思う。

 如何なる困難に遭遇しても、
沈着冷静でありながら大胆且つ繊細な行動を取りうる度量は、
生命存在に対する心配を超越し、
死中に活を得る覚悟を有する人物の為し得る業なのである。

 場合によっては、
周囲にはただの馬鹿者と映ることもあるであろう
羞恥心を超越した思い切った行動は、
生命存在にのみ心労しているようではなかなか出来るものではない。

 それは丁度底なしの断崖絶壁にばかり心を奪われ、
歩幅ほどの谷間をまたげずに目的を果たせずに
無駄な時間を過ごす様なものである。

 組織的な現代社会でこれをいうのは酷な事なのかもしれないが、
横的(人間的上下関係を含む)繋がりにのみとらわれて、
縦的使命を果たせなくなるのは、
神の子、神の宮として肉体を頂いた意味が無くなってしまう。

 私も過去を振り返れば、
糠に釘を打つような年月を何度ともなく味わってきたが、
その都度、私に生きる希望と勇気を与えてくれたのは
信仰と実証のおかげだったのである。

 聖師様の世界は、信じて、忍耐して、断行し続けると、
必ず結果となって現れて来る奇跡の世界である。
ただし、それは信じた者にのみ直接現れる極めて個人的な結果であるが、
本当を言えば、それは大宇宙を勒める偉大な一役であり、
それは必ず世界に拡大して現れて来る神業となっているのである。
この事実は誰が否定しようと変えることの出来ない事実である。

これを覚ったその時から、
誰もが自分をつまらない小さな存在とは思わなくなる。
例え病床に伏せっていようとも、日雇いの肉体労働の身であろうとも、
職もなくうろうろしていようとも、
霊界に復活した人の魂は希望を取り戻し、救われるのである。
平成(西暦1998)十年九月一日 旧七月十一日(火)

 武道といえば目の敵にする平和主義者がいる。
武道の何たるかを知らず、武を凶器とのみ思うのは、
無知蒙昧なことである。

本来、武の文字は一ず戈を止めると云う意味で、
第一に攻めを制するのである。

即ち、本来、先手必勝は武ではなく、
敵意を抑えるのが誠の武である。

にも関わらず、武が殺人と同意に取られる様になったのは、
神を忘れ、神を誤解していながら、
神を味方にすれば必勝であるという迷信を
誠の信仰から堕落した腕自慢が、体力の優劣や、
肉体の生死をのみ基準にして正否を量った愚行の名残である。

 武術という場合も、本来は同様で、俗人が喰いつなぐ為、
弟子を求めて競い合った結果、本来の精神が捨てられていったのが、
単なる殺し合いや乱闘と同一視されるようになってしまった
大なる原因である。

そもそも武の発祥は少林寺である。

徹底的の座禅観法によって道を開いた達磨太師の弟子達が、
太師の忍耐を学ぶために始めたのが、少林武術である。

徹底的に精神が土台になった厳しい肉体修行に耐えることは、
若者の暴走しがちな活力を超越的な能力に還元する働きを
していたのである。

  武は超越的能力であるから、
これを身につける者は達磨の導きを通じて愛善と信真を開拓して、
暴力に走らない為の理性を授かっていなければならなかった。

 それは丁度、武士が武芸百般に通達しながら
学問を通じて均整を守っていたのと同じ事である。

  人は常に善悪混交の世界にある。

 故に愛のみでは暴力に圧せられるのみであるから、
英知と武道を修得して霊力体の完備した完全体として
活動することが望ましいのである。

 神武は愛善と信真である。全てを天国に導く力である。
体力には現界がある。体力を磨けば磨くほど、
老いによる体力のもろさを知ることになり、
霊力、神力の無限を知る事になるのである。
この大宇宙の主神は何物とも争わないが、全てに勝っている。

どれほど優れた体力の持ち主も、ずば抜けた才能の持ち主も、
この大宇宙の中での一瞬のきらめきにも満たないものである。

そのはかないきらめきを賛美し、
語り伝えるものは人間の敬愛と忠孝の念である。

如何なる優れた人間の業績も、
それを伝えようとする後者の想いがなければ、
決して永遠性を持つものではないのである。

武は戦闘ではない。
愛念と理法の結晶である。

武は精神と肉体の賜である。
乱闘のような、無礼極まりないものではないのである。

武は理性と野性と神性の昇華である。
戦乱の狂気と混同するべきものではない。

武は農であり、商であり、工であり、
慈愛であり、美であり、真であり、皇道である。

 武芸百般ある中で、
主神が弥勒の世に授けた武は植芝盛平の合気道である。

そうして李小龍の残した截拳道は、
やがて、世界に理性ある勇気を育てる基礎となる。

 それはかつて音楽の世界に於いて
ジミ・ヘンドリックスがギターによる精神革命を
やってのけたようにして、
誠の強さを世界中にもたらすことになるのである。

 それもこれも神素盞嗚大神の救いの御業であるのだ。

 素に於いては一弦琴、日本に於いては三味線、
世界に於いては六弦のギターと拡大するように、
武は素に於いては善言美詞、日本に於いては合気道、
世界に於いては截拳道がこの役を果たすことになるのである。

「アチャー」はアジアの転訛「オジョー」は欧州である。
創造の天使達は知らなかった。
平成(西暦1998)十年九月二日 旧七月十二日(水)

 私が二十歳の頃である。
横浜駅東口地下街の某喫茶店でウェイターのアルバイトをしていた。
以前のバイト先の中国料理店での後輩に紹介されてのことであった。
そこには「まなみちゃん」という
マドンナ的アルバイトのウェイトレスがいたが、
私は以前のバイト先での失恋の痛手が癒えたばかりだったし、
神様に目覚めたばかりだったので恋の虫も騒がずにいた。

それに当時の私は

「みんなしあわせになれ」

を具体化するにはどうするべきか、
暗中模索の日々だったので恋どころではなかったのだ。

 そんな夏のある日、
地下街の夏休みに店長の誘いで海岸でのバーベキューが企画された。

私は寝坊して、後から遅刻して参加したのだが、
帰りは店長の自家用車が定員オーバーになった為、
先の後輩と二人で最寄りの駅までバスに乗って帰ることになった。

駅で自動車組と合流する予定だったらしいが、
すれ違ったのでそのまま帰ることになった。

後輩はそれが悔やまれたらしく、
このまま帰るのが寂しいと彼の家で二次会をやろうと言い出した。
私は別に断る理由もなかったので同意した。

京浜急行線が神奈川新町に着いたのは七時頃だったが、
街頭が少なかったのと薄もやが張っていた為、妙に暗い夜だと感じた。

踏切を渡る時に、ふいに悪寒が走って
何か邪気の様な物を感じたまま彼の家に着いたのを覚えている。

 コックの彼は有り合わせの食材で夕食を御馳走してくれた。
あれこれ話す内に、
二人ともその場に布団も敷かずに寝込んでしまったのである。

 どれくらいの時間が経ったのだろう、
私はうっすらと目覚めかけていた。

すると雨が窓を激しく叩く様な、ザーッという耳鳴りの様な、
ラジオやテレビの砂嵐の様な音に不快を感じている内に、
顔の上に手が乗って来るのを感じた。

始めは後輩が寝ぼけたか、ふざけるかしているのではないかと

「よせよ」

と言おうとしたが口がきけない。

それで首を振って振り払おうとしたが、まるで自由がきかない。

「あ、これは金縛りだ。」

思った途端に犯人の笑い声が聞こえてきた。

それは確かにあざ笑うような

「ヒヒヒヒヒ・・・・」

という女の声だった。

そいつが私の顔をしこたまいじり倒した後、
やにわに首をかかえて持ち上げた。

すると途端に私は360度を
そのままの状態で見る事が出来るようになっているではないか。
しかも、足下には私の肉体が仰向けに寝ころんでいる。

強制的に幽体離脱させられていたのである。

私は以外にも恐れもせず、背後の存在に詰問した。

「お前は誰だ。」

すると、彼女はあざ笑いながら言った。

「ヒヒヒヒヒ、ほしだ・・・星田悦子・・・。」

何故か言葉と文字が同時に伝わってきたのだ。
初めて聞く名前であった。

と、同時に咄嗟に守護霊に救いを求めた。

すると部屋のドア一面に現れた男性の顔が
背後の存在に経文を唱えて一喝すると同時に、
背後の存在が消え去り、私の幽体は肉体に落ちるように戻った。

平常の意識に戻ると漸く恐くなり、暫く目があけられなかった。

部屋の電気はつけたままであり、
後輩は何も知らずに昏々と寝入っている。

翌日、後輩や同僚に話したが皆聞き流すばかりであった。

 それから暫くして
「まなみちゃん」とキスをする夢を見たのがきっかけで、
また恋の虫が暴れだし、守護霊の実在を説く二つの宗教に出会い、
統一協会や創価学会等からの勧誘を潜り抜け、
「七四十一大神」を感得して、大本に関心を持ちながら、
ムーや八幡書店版の霊界物語を経由して
再興愛善苑にたどり着いたのである。

幽体離脱事件から十年後、
「出口王仁三郎の入蒙秘話」を読んでいる時に
「星田悦子」の名を見た時、自分が神学に集中し始めると、
必ず女性からの誘惑に悩まされて来たことの理由が分かったのである。

だからといって現在の星田家がどうだというのではなく、
聖師様の導きの用意周到さに、ただただ驚嘆し、
感動させられたのである。

人間は何事も心底から真剣に対峙すれば、
必ず誠の神に至るという私の確信は、
この様な奇跡体験の積み重ねによって得られたものである。

実際、霊界物語を初めて拝読した時に体験した
奇跡とひらめきを数え上げると、全くきりがなくなるほどである。

 私は、神霊現象を語り合える友がいなかった為、
神との直接的な対話を通して、
自分と神の間でしか通じ合えない独自の言語を創り出してきた。

だから、現在でも私の説くところが理解出来ないと思われる方が
たくさんいる。
だが、それは仕方のないことである。

聖師様は教えの基本的なことをのみ
霊界物語や種々の書籍に残されたのである。

その基本は各自の因縁相応に応用されて吸収されるのであるから、
万人万様なのである。

だから、星田悦子というのも、
私を襲った邪気が彼女の名を悪用したのであろうと
思い直すようにしている。

彼女の過去の事実はどうあれ、
それは部外者の私がどうこう言うことではない。

私は私の体験を霊界物語や
その他の聖師様の書籍や芸術と照らし合わせて、
天国に向かう指針としているだけである。
他人様の預かり知るところではないのである。

だから私も、他人様の神様との聖なる交流を
とやかく言う気持ちが起きてこないのである。

人はそれぞれに独自に神と交流しているのであり、
それは神聖侵すべからざる境域である。

 この体験談を通して感じてほしいのは霊界の実在である。

その為の一例として談じているのであり、
だから私が誰より偉いのだ等と言っているのではない。
私の体験談を通して神の一面を感じとって頂きたいだけである。

ただ間違いなく言えるのは、
私は高姫、黒姫の系統に対立する存在であったという喜びである。
それは何よりの朗報である。
やはり、悪役になるのは本能的に嫌なものである。

 このことだけでも私には
今後も聖師様の下で情熱的に想い存分活動して行ける
確信を得られたことになるのだから、
千万金以上の価値のある体験であったと堂々と言えるのである。

十年以上経ってから明かされる神秘は幾つもある。
そんな体験が幾つもあるのである。

 他人様が信じてくれようと、くれなかろうと
私にとってこれは確かに神との間で交わされた事実なのである。
だが、やはり多くの朋友とこの感動を分かち合いたいのが本音である。

 今日、再び海洋万里子の巻を拝読した。
第一章で鶴公が言っている。上に立つ者は、
下の者に使われる為に存在していると。実に深い言葉である。
神でさえも人民から願いを向けられることを待っていると言っている。
人民はもっと誠の神を鰹節にして、
良い出汁を取り味のある人生を送るべきである。

 神に願をかけることを恥じるべきではない。
神あっての人であり、人あっての神である。
双方が噛み合って世界は無限に物語りを創り出してゆくのである。
過去にのみ執し、過去にのみ権威を付与するのではなく、
神とともに未来を創り出して行く努力をするべきなのである。
だから私はなるべく過去の話しはしない様に心がけて来た。
しかし、未来にのみ偏るのもこれは良くないことである。

今、文章にすることを許しているのは神以外の誰でもない。
何故なら、神こそは最大の過去であり、人間は今であり、
人は未来そのもであるからである。

今裏付けが無いからと言って、
後に裏付けが現れないという保証は無いのである。

今の嘘が未来の真実となるかも知れぬ。

神の子は未来がはっきり見えない限り、
今ある全てを否定するべきではないのだ。
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『音惚花活気好@KAKKY』**********『七四十一大神』& 『みんなしあわせになれ』  = 垣内政治
年齢:
63
性別:
男性
誕生日:
1960/11/17
職業:
ミュージシャン
趣味:
インターネット、ブログ
自己紹介:
今は夜の横浜の伊勢佐木モールを中心にストリートライブでオリジナルCD-Rを手売りしたり、営業をもらったりして活動してます。
時々バンドでのライブもやりますから見かけたら応援してください。
ここには二十歳の頃から始めた神学を応用したフリートークを公開してます。
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